伏見稲荷大社

私たちの一番身近な宗教的建物と言ったらやはり【お稲荷さん】ではないでしょうか?

どの田舎に行っても、田んぼの端っこ、村の中心の林、山の麓などに必ずあると言っても過言ではないと思われます。

日本全国に四万社もあり、小さな祠まで含めると百万もあると言われている稲荷社。

入口には狐が左右に座り、赤い鳥居が人々を迎えてくれるお稲荷さま。

商売繁盛・農業の神様としてずっと親しまれてきた【おいなりさん】のリーダーは、京都府の伏見稲荷大社です。

豊かな自然に囲まれた大社は朱色の鳥居が長く続く(千本鳥居)インスタ映えするスポットとしても有名ですね。

ドラマロケに使われたりするため知名度もアップし、今や外国人観光客にも人気の観光地になっています。

稲荷五社大明神

日本で一番有名な稲荷神社、伏見稲荷大社を紹介しましょう。

伏見稲荷大社の祭神は5柱いらっしゃいます。

まず下社の祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、中社は佐田彦大神(さるたひこのおおかみ)、上社は大宮能売大神(あめのうずめのかみ)、下社摂社は田中大神(たなかのおおかみ)、中社摂社は四之大神(しのおおかみ)と言われています。

これらの神々は京都太秦に根を下ろした渡来氏族である秦氏(聖徳太子とつながりのあった秦河勝が有名ですね)の氏神とも、或いは弘法大師空海に東寺の守護を約束した土地の神だったとも伝えられています。

宇迦之御魂大神の【宇迦】「うけ」とは【食物】の古い言い方で、食物を所掌する神である保食津神(うけもちのかみ)、御饌津神(みけつかみ)とも同一視されることがあります。

もともとは須佐之男命が大山津見の娘、大市比売を妻にして生んだ神であり、漢字はで倉稲魂と表わされることもある女神です。

日本人の食生活に無くてはならないお米(稲)に宿った神であり、【稲を荷う神】【稲の成る神】とされています。

つまりは五穀豊穣の神であり、人間生活に不可欠な食物の神様でもあるのです。

佐田彦大神は、海や陸の通行を守る神であり、通商貿易についても、全てを良い方向に導いてくれる神とされています。

また皇城の巽(京都の東南)方向にある鎮護神(都を護る神)として尊敬されていました。

同時に熊野御幸(天皇の旅行)の道中の守護神として、朝廷からも尊崇されていた神でもあったのです。

大宮能売大神は神座舞踏(神前で神を祀るために演じられる舞踏)の始祖です。

天照大神がスサノオの乱暴に機嫌を損ね、天の岩戸に隠れたとき、その前で踊って(ストリップという説もあります)天照大神を引っ張り出すきっかけとなったことは古事記などでも有名ですね。

そんなことがあって歌舞音曲の神と言われ、さらに長命を約束し、愛敬の神でもあるとして、一族一家の和合や家業繁盛を守護してくれる神とされています。

田中大神、四之大神の2柱は元々は存在していなかったようで、後で仲間入りした神のようです。

その由来は不明で、土着の神でないかと推測されているようです。

こうして5柱(正確には3柱)について考えると【伏見大社=商売の神様】とされるのも納得できるような気がします。

聞いた話ですが、商店には必ず伏見大社のおキツネ様を飾るという習わしがあり、そのために犬を飼ってはいけないと言われているらしいです。

愛を獲得する呪術

稲荷社は、愛法の神でもあり、女性の出世栄達の神としても尊崇されていました。

【愛法】というのは聞き慣れない単語だと思いますが、もともとは【真理に対する愛】のことで要は【執着】なのですが、転じて【愛を獲得する呪術】とも思われたようです。

どんな呪術を使うんだろうと考えると、ちょっと恐ろしいような感じがしますね。

また、女性の出世栄達の神というのも、あまり聞き慣れないのですが、後述するキツネとの関係のためかも知れません。

お稲荷様の由来と正一位

『山城国風土記』(山城国=京都府、歴史、風俗、地誌などの記録文書)の《紀伊郡の伊奈利社》に書いてある由来によると、平城京遷都の翌和銅四年(711年)秦伊呂具(はたのいろぐ、或いは伊呂巨とも。秦氏)は、ある日モチをついて矢の的を作りました。

なぜモチなのか、食べ物を的にするなんて…と思う方もいらっしゃるのでは?

彼は的にしたモチに矢を射かけたのですが、モチは白い鳥に姿を変えると、あっという間に遠い山の峰に飛び去ってしまったのです。

そしてモチが変化した白い鳥が舞い降りた峰には稲がたわわに稔り、豊作となったそうです。

伊呂具はこの出来事を「きっと神のなさったことに違いない」と恐れ敬い、その場所に社を建てたのでした。

これがお稲荷さんの始まりとされています。

このエピソードは日本全国で伝えられている白鳥伝説(悲劇の英雄ヤマトタケルが白鳥になった)ともよく似ていると言われています。

白鳥に変化したのが、モチと英雄では違いすぎる気がしますけれども。

京都では、西北に位置する愛宕山付近によく雷が発生し、東南にあたる稲荷山へ抜けることが多いようです。

ということは稲荷山は雷の【稲妻】を数多く受けることになりますね。

ですから【稲妻→稲も成る】と考えられてきたという説もあるそうです。

桓武天皇の息子であり、嵯峨天皇の弟で次代の天皇となった淳和天皇は後ろ盾たる藤原氏の内紛などのプレッシャーなどで精神的に弱っていた時期がありました。

桓武天皇皇后所生の男子ではなかったため、日陰の身として、もともと気弱な性格の天皇だったようです。

天長4年(827年)、不調を訴えられたので占ったところ、「東寺の塔を造る材木として稲荷社の樹を伐った祟りのせいである」との神託が下ったため、内舎人の大中臣雄良を遣わし、稲荷社に従五位下の神階を授けたと言われています。

官位を授けて、祟りを払ってもらおうと考えたのでしょう。

弘法大師空海は東寺の造営をそれ以前の嵯峨天皇の弘仁14年(823年)、伽藍構築途中に委ねられました。

そしてその後は東寺の守護神として祭られたのです。

やがて稲荷社には最高位の正一位が授けられました。

稲荷社と初午としるしの杉

しるしの杉平安時代中期以降になると、紀州の熊野詣が盛んとなり、その往復には必ず稲荷社に参詣するのがセットになったそうです。

これは空海の開いた高野山金剛峯寺への参詣と関連しているように思われます。

参詣のときに、稲荷社の杉の小枝=しるしの杉を頂いて、身体のどこかに付けるということが流行し、やがて誰もが行うようになっていったのです。

平安後期の公卿藤原為房による『為房卿記』には、永保元年(1018年)10月、熊野詣の帰途、稲荷社に参詣し、杉枝を伐って笠に差し、京に入ったという記録が残されています。

また平家が権力を握るきっかけとなった平治の乱を記した『平治物語』には、平治元年(1159年)12月10日、平清盛が熊野参詣の途中、京から「前日に三条殿へ夜討があり御所が焼亡した」という知らせがあり、おっとり刀で京へ引き返す時「先づ稲荷の社にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして六波羅へぞ着きにける」(最初に稲荷社にお参りし、一人一人が杉の枝を折って、鎧の袖に差したまま、平家の本拠地六波羅へ着いた)と記載されています。

京都や近畿の人々が行楽気分で初午(2月に入って初めての牛の日。普通は2月下旬から3月中旬の間であり、春めいた頃)に稲荷大社を詣でる風習は平安時代からあったようです。

ちょっと早いお花見といったところでしょうか。

以下に、お稲荷さんと初午にちなんだ和歌を紹介します。

きさらぎや けふ初午の しるしとて 稲荷の杉は もとつ葉もなし

『新撰六帖』 光俊朝臣

鎌倉中期に成立した『新撰六帖』その中の歌人で、新三十六歌仙の一人とされる歌人葉室光俊(光俊朝臣)の和歌です。

「人々が初午に参詣したが、その証拠として、全員が杉の小枝を折っていってしまったので、この日の稲荷山の杉は葉が一つも無くなってしまった」という意味です。

この和歌でもおわかりのように《初午》《しるしの杉》は切り離せない深い関係にあったと思われます。

キツネと眷属

白狐何回もキツネとお稲荷さんとの関わりを紹介してきました。

やはり、お稲荷さんと言ったら即キツネを連想する方が多いと思われます。

このキツネは、眷属といって神様の一族のような資格を与えられているのです。

そのためか、【キツネ=稲荷神】という誤解をしている人は多いのではないでしょうか。

お稲荷さんとキツネがどうして結びついたのかについては、諸説があります。

御饌神(みけつかみ)

前述したように、稲荷神は「食物の神」つまり御饌神(みけつかみ)です。

その「みけつ」がいつか三狐(みけつね)に転じ、さらに御狐(おけつね)に転じたことによって【狐神】の信仰が生じたという説が一つ。

関西の方では【きつねうどん】を【けつねうどん】と言うのは、このせいでしょうか。

荼枳尼天(だきにてん)

荼枳尼天
荼枳尼天

あるいは、稲荷神がのちに密教における保食津神=荼枳尼天(だきにんてん、仏教では夜叉の一種で女性の悪鬼)と本迹関係(ざっくり言うと師匠と弟子の関係)を結んだことを重視したため、荼枳尼天のまたがるキツネがそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説もあります。

稲荷流記 ~小薄と阿小町~

また、空海の弟子であり、弟でもある真雅僧正が著したとされる『稲荷流記』には、平安初期の弘仁年間(810~824年)の出来事として、平安京の北の郊外・船岡山の麓に棲む年老いた白狐の夫婦の話が載っています。

この狐夫婦は心根が善良で、いつもいつも世のため人のために尽くしたいと思っていたそうです。

しかし、何と言っても畜生(動物)の身ですから、そうはいきません。

そこで、ある日狐夫婦は五匹の子狐を伴って、稲荷山に参拝しました。

「今日より当社の御眷属となりて神威を借り、この願いを果たさん」(今日からこちらの部下になりますから、お力を借りて願いを果たしたいと思います)と、社前にお祈りしたのです。

すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣が下されたのでした。

「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」(おまえ達の願いを許そう。まずは、今日からずっとこの社のお使いとなって、参拝する人や信仰する人を助けたり、優しく対応してあげなさい)

こうして狐夫婦は稲荷山に移り住んで、稲荷神の慈悲と付託に応えようと日夜精進に努めました。

ちなみに、稲荷神はキツネたちに名前を授けてくれたそうです。

男狐は小薄(オススキ)、女狐は阿小町(アコマチ)という名前でした。

やがて、稲荷社の眷族神として命婦(白狐)社が祀られるようになり、稲荷山で狐に仕える祈祷師や巫女が活動するようになりました。

この白狐は美女に化けると信じられていました。

九尾のキツネの話は聞いたことがあるかと思いますが、あれも白いキツネが絶世の美女(玉藻の前)に化けて、天皇の寵愛を受け、権力を好き勝手に使って人々を苦しめるというお話ですね。

と言うわけで、「おいなりさん」とキツネ(白狐)が結びついたのでした。

稲荷信仰の盛り上がり

稲荷は鍛冶の神様でもあります。

理由は、稲荷神の化身とされる白狐が、三条小鍛冶宗近(平安末期の刀匠)を助けて一条天皇(清少納言、紫式部と同時代)の勅命の剣を製作したと言われています。

これが、毎年11月の火焚祭(吹革祭)の始まりとされています。

伏見の稲荷神は、その土地柄のせいでしょうか、その後は農業神としてよりも【商売繁盛の神】へと次第に発展していきました。

京都では稲荷信仰が盛んになりました。

と同時に、江戸時代には商業が発達したため、爆発的な人気が出たのです。

そして鍛冶業者をはじめ、各種の同業者組合が「稲荷講」という組織を作り祭礼や参詣を行いました。

その流れと共に、稲荷神は敷地内にある屋敷神としても人気が出て、多くの人に広がっていき、あちこちの屋敷でお稲荷さんの祠が造られるようになったのです。

この結果、江戸市中では「伊勢屋稲荷に犬の糞」(江戸市中で目に付くのが、伊勢屋という屋号の店と、稲荷社と犬の糞)と言われるまでに、あちこちに稲荷神社が増えたのです。

稲荷と朱塗りの千本鳥居

千本鳥居一部が丹塗りの神社の建物は珍しくはありませんが、稲荷社は本殿まで朱塗りです。

朱のイメージは強く、稲荷神の徳を表わしているとも言わせています。

【朱】がシンボルカラーになった理由は明確ではありませんが、稲荷山に火の行者がいたという説や、鍛冶の作業、または落雷によって山火事がたびたび発生したことから、火のイメージが朱につながったのかも知れません。

いずれにしても、中世には【火焔の玉】と【白狐】はお稲荷さんのシンボルとなりました。

伏見稲荷大社の一番の名所というべき千本鳥居。

今や世界中から観光客が訪れるようになりましたが、意外なことにその起源は比較的新しいのです。

お稲荷さん人気が高まった江戸中期に、日本一の大鳥居を造立しようと【肝煎講】が結成され、朱の鳥居が建立されました。

時代が下って19世紀になると奥宮(命婦谷)が整備され、山の神蹟(お塚、すなわち稲荷山中の祠)で民間習俗の「狐下げ」(狐つきの病気を祓うこと)が盛んとなり、個々人の信者による朱の鳥居建納が続々と始まりました。

今でなら、精神的な病気としてちゃんとした治療もしてもられる数々の症状は、知識の乏しかった当時は【人ならぬものに取り憑かれた=キツネ憑き】と思われていたのです。

その方法はかなり荒っぽかったので、患者自身が重傷を負ったり、ひどいときには死んでしまうこともあったようです。

明治になると、稲荷社のお塚は【前時代的な怪しい宗教活動】として禁止されるようになったのです。

しかし、熱心なお塚の信者たちは「稲荷講社」を設立し、普及活動を一層進めました。

やがて、朱の鳥居はどんどんと増え続け、千本以上あると言われるようになりました。

結果として現在世界中の人々を魅了する稲荷山全域に及ぶ見事な美しい朱いトンネルとなったのです。

お稲荷さま~白狐と千本鳥居の由来~商売繁盛の神と初午のしるしの杉 まとめ

一番身近にある宗教のシンボルがお稲荷さんという方も多いと思います。

こじんまりとした祠は気軽に手を合わせやすいことから、知らず知らずのうちにお参りしているという方も多いのではないでしょうか。

コンビニでもお手軽に手に入る【いなり寿司】も由来は、キツネは油揚が好きだから-という説もありますね。

そしてキツネとお稲荷さんは強く結びついていることはご紹介してきました。

いなり寿司を食べるとき、稲荷社のことも連想していただけたらなと思います。

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